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                           鈴木 亜久里
 

 私はF1中継がフジテレビにより本格的に始まり世の中にF1ブームなるものが起こっていたころ真剣に仕事が忙しく見ている暇などこれぽっちも無かった。幼少の頃プラモデル好きでありマクラーレン、フェラーリ、ロータスは当然知っていたし、今思えば不思議な形の車も作った覚えもある。子供の頃はむしろ日産R380などの巨大なリアウイングをつけた車が好きであった。当然ポルシェカレラなどは何台作ったことか。その後グラチャンはテレビで時々見ていて今は無き川合稔選手が富士で優勝したレースも見ていた。(まだバンクがあった。富士といえば子供の頃はバンクがあるサーキットのイメージだった。)その後あこがれの川合稔選手が事故死(少年マガジンに出ていましたね。これはよく覚えています。)した影響でしばらくレースに興味を失ってもいました。まあ新聞はよく読んでいたので特に亜久里選手が予備予選落ちしたのはよく覚えています。表彰台にのったのもスポーツ新聞で知りました。本当に大学出てから6年間ぐらいは仕事以外なしという感じで今思い出してもあれで人間といえるのかという生活をしていました。中嶋選手が引退の頃会社を辞めその時に1991年のオーストラリアグランプリを見ました。衝撃でしたね。この勇敢そのものの選手達、びっくりでした。仕事ばかりしてなきゃよかったなと、真剣に思いました。まあこれらは関係が無いでしょうが。私にとっては亜久里選手は才能を自分でつぶしてしまった選手のような印象が強いです。おそらくトップドライバーといえる選手になれるだけの才能は間違いなくあったでしょう。周りが甘やかしてしまった時期に本人の絶頂期があったのでしょう。そんな彼の走りも中古ビデオを大量に探し購入することでなんとか見ることもできました。1993年の第2戦からは全て録画してありますし、92年も一部のグランプリと総集編は録画が残っています。それらとリアルタイム部分を含めてご紹介です。


1988年日本グランプリ
いきなりのスポット参戦。プロスト2世といわれた(後のルマン優勝請負業ドライバー)ヤニック・ダルマスが耳の病気のために乗れなくなり、その代打で日本グランプリにスポット参戦。この時にいきさつをフジテレビの「ジャンク・スポーツ」で最近しゃべってましたね。最初電話があったとき言葉がよくわからずとりあえず通訳にかわり話を聞いてもらったところ「日本グランプリに参戦しないか」というラルース・チームからのコンタクトであった。ところが亜久里選手はまさかこんなことがあるわけが無いという感じとテレビで日本グランプリの解説が決まっていたので一旦断ってしまう。驚いたのがラルース・チーム普通断るわけの無い話を断られたわけで再度プッシュ。本気だとわかり開催週にシート作っていきなり参戦。予選通過するも途中でカウルが吹っ飛ぶアクシデントがあり結果は振るわず。(結構このシーンはビデオに残っているがビックリする。レース中にカウルが吹っ飛ぶなんてね・・・・・・・)

1988年亜久里成績表


1989年シーズン

総評
ザクスピード・ヤマハというパッケージで参戦するも全戦予備予選落ち。この時の様子はビデオで発売されていました。もしかすると今でも中古ビデオ屋にあるかもしれません。最初はシャーシの問題もあり(長谷川からこのマシンのプラモが出ていた。作りましたがこれはF1マシンでは無いね。)まともに走らずヤマハも初のF1エンジンということもありまるで走らず。マシンのデザインは現トヨタF1のグスタフ・ブルナー。赤っ恥の1年であった。

1989年亜久里成績表

1990年シーズン

総評
ラルースに移籍。前年とはうって変わり注目のルーキーとして扱われる。この年のラルース・ランボルギーニ(実際はクライスラーエンジン)はよく走った。
イギリス、フランスで入賞そして日本グランプリで表彰台に登る。(例のセナ、プロスト激突事件発生)ファステストラップはリカルド・パトレーゼに譲るものの走りは超一流のドライバーとも遜色なくマシンのハンデを考えると快挙ともいえる。デレック・ワーウィックを抜く際の走りはマンセル的走り。ベネトンと契約寸前までいきながらラルース残留という謎の行動。ただその後のシューマッハ登場の流れを見るといずれにせよ亜久里にはチーム運は最初からなかったのかも知れない。この年の粘りある走りを続けられていれば彼のF1人生は違ったものになったであろうことは大多数の人が考えるところに違いない。

1990年亜久里成績表


1991年シーズン

総評
ラルース・フォードとなりチームも資金不足(メーンスポンサーの経営危機の影響と前年のコンストラクターズポイント剥奪がきく。)全く不振のシーズンとなる。しかし第1戦アメリカGPでは6位入賞セナの後を周回遅れとなった亜久里がしばらくほとんど同じラップで走り続ける姿はなかなかやるものだといえる感じです。その後は参戦危機ありボロボロ。

1991年亜久里成績表


1992年シーズン
フットワーク無限に移籍。全体的に安定した走りはみせるもののやはりリタイアも多くノーポイント。このころから亜久里に甘えが見え言い訳も増える。チームメイトの故ミケーレ・アルボレート(彼のドイツでのテスト中の死は東京中日スポーツの1面にもなりかなりセンセーショナルなものであった。)は入賞も2回あり最終戦以外はすべて完走であったことも考えればちょっと問題ありかなと感じさせるシーズンとなってしまう。

1992年亜久里成績表

1993年シーズン

後半戦予選キング状態。トップ10は当たり前の状態となる。フランスグランプリ以降は常に入賞圏を走行する。チームがマクラーレンよりアクティブ・サスペンションを購入しマシンに装着。車の挙動が安定し当時のチームメイト屈強の男ワーウィックをつぶしまくる。ピークはベルギーグランプリ。予選6位この時の予選ビデオはまだ残してあります。本当に美しく動くマシン。日本人ドライバーとしての頂点を極めるかと思えば、決勝は一時5位を走るもののいきなりリタイア(マシントラブル)。モンツァでは予選8位につけ1コーナーへ、アンドレッティにこづかれワーウィックに突っ込む。あっという間のリタイア。この後突っ込んできたアンドレッティが3位入賞したことを考えるとなんともはや運が無いのもここまで来るという感じ。日本グランプリでは右京と好バトルするもののピットストップ失敗。その上白線にのりスピンリタイア。当然シート喪失。いいのか悪いのか不思議なドライバーという存在へとなっていく。

1993年亜久里成績表


1994年シーズン
総評
出場停止のアーバインに代わり第2戦TIサーキットでジョーダン・ハートで参戦。単に周回するだけでステアリングの故障(危うくレッカー車に激突寸前)でコースアウト、リタイア。JTCCドライバーの一年であった。

1994年亜久里成績表


1995年シーズン
総評
リジェ・無限でブランドルとシートをシェアし参戦。いままでと違い粘り強い走りを見せる。第2戦アルゼンチン、サロに突っ込みサロの殴りこみを受ける。ドイツでは粘り強く走り6位入賞。しかしこの時ゴール直後エンジン燃え上がる。これが亜久里最後の入賞となる。そして日本グランプリ予選。すでにチームメイトのパニスを押さえ込む走りを見せていたが後一押しのアタック中大クラッシュ。この時の予選が亜久里最後のグランプリとなる。この裏話を「ジャンク・スポーツ」でしていましたが本当なのかなあ?だとするとこの人が大成しなかったのは当たり前だったのかもしれない。走行中に目を前から離すな!一流になるための集中力がなかったのねこの人・・・・・・・・・・。

1995年亜久里成績表

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