日本人ドライバー列伝
                            片山右京

 ちなみに私は熱狂的な右京ファンです。1994年の走りはすごかった。真剣にシューマッハ以外のドライバーには見ていて負ける気がしなかった。
しかしやはり日本人ヨーロッパではどうしても最終的には受け入れられない。それでもこの年、1994年だけは違った。イタリアでは最も勇敢なドライバーに選ばれ熱狂的に支持され、
イギリスでは権威ある専門誌にこの年のドライバー第5位に選出されている。1995年何故かベネトンにいかずティレルに残る。チャンスを自分から捨ててしまった。
個人的にはフレンツェン、アーバインクラスのドライバーだったと思う。勝てる可能性を感じさせた唯一のドライバー。彼の走りは永遠に忘れないであろう。


1992年シーズン

総評
来シーズンへの大きな期待をつなぐ年となった。特にカナダGPでの5位走行は日本中がしびれた。見事だった。そして、日本グランプリ。
フェラーリのニコラ・ラリーニを130Rでぶち抜く。(このときカペリが解雇されラリーニが参戦)リタイアばかりだったが、この予算のないポンコツチームでのこの活躍は見事だった。
しかしこの年入賞できなかったことが彼のこの後のF1人生に大きな影を落とすことになるのであった。

1992年成績表と各グランプリでの右京の状況 1992右京成績表 


1993年シーズン

総評
期待されたティレル移籍。これがとんでもすっとこどっこいであった。マイク・コフランのデザインが遅れ当初旧車。(大体何年落ちだったんだこのティレル)新車はとんでもない代物。モノショックサスペンションという旧時代の遺物のようなサスを使い他もメロメロ。右京スペインで死にかける。スピン、コースアウト直後の右京のインタビュー真剣に本人ビビリ言葉でず。その後もまともに走らず話題は金曜のドライバーインタビュー。プロスト受けまくり。「右京さん、F1に来て最も印象的だったことは?」右京「セナやプロストにあえたことかなあ。握手もしてもらえたし。」(場内大爆笑)「右京さん、F1に来てもっとも怖かったことは?」右京「周回遅れになるときさ。うおーセナがきた。プロストが来た。うまく抜いてくれ。抜いてくれなきゃ殴られる。」(場内大爆笑、この時プロスト、レート、ワーウィックらが出席。大受けであった。)ちなみにちょっと違っているかも。この時の様子は年末の総集編で放送されたので見た人も多いでしょう。
その後モンツァで一時7位を堂々走行。ただしホィールが壊れ結果には結びつかず。このころからヤマハエンジンは調子があがってきていた。そして日本グランプリ。予選で中団につけ、途中鈴木亜久里と雨の中激走。二人のクリーンな素晴らしい争いがあった。この時の解説は森脇さん。「これは素晴らしい。」を連発。この年予選ではあのアンドレア・デ・チェザリスと予選では5分の争いであった。あくまでもこの年の不振はマシンのせいであるのは明らかであった。
としてもあまりにもリタイア多く、来年のシートはないだろうなあと思った人も多かった(私はもうダメだと思った。)

1993年成績表と各グランプリでの右京の状況 1993右京成績表

1994年シーズン

総評
脅威の日本人現れる。第一戦のブラジルで見事初入賞。しかしこれは実際アーバイン、ブランドル、フェルスタッペンら上位を走っていたドライバーがアーバインの暴行で消えたおかげもいくらかあるようだ。しかし予選から右京の走りはよく見事入賞。
第二戦T1.この年と95年何と日本で年2回開催。腰痛で右京消える。そしてあの悲劇のサンマリノ。当時日曜日はあの悲劇のために中継はレース部分はほとんどなし。翌日追悼番組で放送された。右京はこの時セナの死は知らずに走っていたそうだ。途中クリスチャン・フィッツパルディと1位争いをする。チャートには残っていないが確かに一瞬右京はトップに立っていた。(チャート上は2位。)そして5位入賞。確かに右京はF1界の中での地位を築き始めていた。しばらくは予選はいいが入賞はできないグランプリが続く。スペインでベルガーが右京にビビリ、コースアウト。イギリスでは最初7位であったがシューマッハが失格となったため6位入賞。まさかこれが最後の入賞になろうとは思いもよらなかった。そしてドイツ日本人予選最高位の5位獲得。前にはシューマッハ、ウイリアムズのデーモン・ヒル、アレジ、ベルガーにフェラーリコンビのみ。決勝は大波乱。ベルガーがまず一歩抜け、スタート成功の右京が2位にジャンプアップ。アレジはスタート直後マシントラブルでリタイア。ヒルは1コーナーで押さえ込む。すぐにシューマッハに2位を譲るが3位をキープ。しかしその後すぐにエンジンが壊れリタイア。この時は録画であっても胸ドキドキ。こんなに燃えたのはこの後2002年までなかったね。ちなみにこの後シューマッハーはリタイア。ベルガーもトラブルを抱えながらの走行だったので、もし(こんなこと言ったらキリがないが)エンジンが壊れなかったら右京の優勝すら考えられたレースだった。その後ハンガリーも予選5位。しかし真骨頂はヨーロッパグランプリ。何と19台抜き。予選6位であったがトラブルで最後尾スタート。1周毎に1台抜く離れ業。最終周回、フレンツェンを最終コーナーで捕らえるが抜き返され惜しくも7位。これに続くはモンツァ、結果はリタイアだったが、途中ウイリアムスとフェラーリを追い掛け回す。クルサードなんか完全にビビッテいた。それよりもこのレースすごかったのはあのハッキネンをレース中2度もオーバーテイク。1度はハッキネンのオンボードカメラに抜いていく右京が写っていた。「あの日本人は一体何なんだ!!!!」ハッキネンのレース後の言葉です。だけど右京の輝きは・・・・・・・・・


1994年成績表と各グランプリでの右京の状況 1994右京成績表

1995年シーズン

総評
前年の光輝く活躍に続くシーズン。日本中のレースファンの注目の中シーズン始まる。右京の不運はチームメイトの交代とメーンスポンサーの登場、そしてハイドローリックサスペンションという制御不能サスの開発に、曲がらない新車。序盤戦モナコまではそこそこ目立つ状態であったが、後半はスパの一時4位走行が目立つ程度で終わる。第1戦ブラジル予選は10位につけそこそこの走りを見せる。ところが新チームメイト、ミカ・サロがこのグランプリでいきなり大ブレイク。そのため右京は次第にチーム内で冷遇されることとなる。サンマリノ、モナコはなかなかの走りであったがどちらも右京のなぞのミスでリタイア。この辺りでもしかして今年ダメかもという雰囲気が流れ始める。マンセルのマネしてる場合じゃなかったね。(サンマリノ)スパでは雨の中のレースでの早さを見せる。雨の中ではシューマッハ、アレジに匹敵する走りをする。しかし徐々にヤマハエンジンがたび重なるレギュレーション改定に予算面で付いていかなくなってきているのが目で見えるような状態にはいっていくのであった。「予算があれば技術は世界一」(星野一義談)。日本人のヨーロッパでの存在感のなさがこの後影響していく。一時イタリア、ドイツ辺りでは一番有名な日本人はなんと右京であった。(この時はサッカー選手はヨーロッパでカズがチャレンジ始めたばかりだったこともあるのでしょうが。)最終戦オーストラリアではエンジンブローで走っているだけのレースを終える。来年あるのかなあ?という感じでした。この年かな服部尚貴が国際F3000にスポット参戦し「右京よりも速い」という幻想が生まれたのは・・・・・・・・・・・・

1995年成績表と各グランプリでの右京の状況 1995右京成績表


1996年シーズン

総評
チームがどつぼ状態。メーンスポンサーに逃げられ(前年の不振にもかかわらずとんでもない予算の増額を要求したのが原因らしい。)ヤマハも新規開発超小型エンジンを供給、これがブローしまくり。発想はすべてのF1エンジン供給メーカーの中で飛びぬけて素晴らしくこの後の小型化競争の先陣を切ったのだったが、金がない!!!!! というわけでボロボロ。ドイツグランプリでは4輪全てフロントタイヤというわけのわからない作戦(この後レギュレーションで禁止)。空気抵抗を減らすためだったようだがお笑いで終わる。このシーズンでティレル解雇。シーズン後ヤマハとともにアロウズへ行く噂がでるがあっさり超腹黒トム・ウォーキンショー(ただいま裁判中)に否定される。その後ザウバーよりセカンドドライバーとして契約持ちかけられる。セカンドの悲哀をしる右京はこれを断りファーストドライバー待遇のミナルディへ行く。だけど所詮ミナルディは・・・・・・・・・・・・・

1996年成績表と各グランプリでの右京の状況 1996右京成績表


1997年シーズン

総評
ミナルディは所詮ミナルディ。2台分の車を走らせる金は無い。しかしこの状況下でなんと右京第1戦ブラジルグランプリで予選13位。「ポールポジションに匹敵する成績だ!」(ジャンカルロ・ミナルディ談)この後チームメイトのイタリア人ドライバー(現ルノー)のヤルノ・トゥルーリにチームは当然肩入れ。右京は新品パーツ無しでシーズン過ごす。当然戦意喪失・・・・・・・・・・日本グランプリ期間中引退発表。1998年もミナルディと契約といわれており、右京もマスコミにはこれを匂わせていたのだが・・・・・・・・・・。この後は中野に継がれる・・・・・・・・・・といっても格が違いすぎるよこの2人。今でも現役のつもり中野よりもフォーミュラ引退の右京の方が全然速いだろうね。この後しばらく日本のF1ファンは暗黒の時代に入るのであった。

1997年成績表と各グランプリでの右京の状況 1997右京成績表


その後
1999年度ルマンのあの活躍。ファステストラップもぎ取る。同一レギュレーション下で史上最速。歴史的に見てもトップ3にはいる大活躍。ちなみにこの時の車は1年落ち。トヨタとはいえヨーロッパ部隊。日本人は相変わらず冷遇される。トヨタがどんなにF1でがんばってもホンダと違い日本で盛り上がらないのはこの辺の体質だろうな。といってもトヨタF1はヨーロッパ市場のためにあるような感じだからこれも仕方が無いでしょう。実力でシートもぎ取れ若手ドライバー。今がチャンスだ。

1999年ルマンの記録(工事中)